痩せ型のデブ
今日の朝は久しぶりにトレーニングジムに行くことを決めた。
毎月の会費を払っているのに最初の3ヶ月以降は月に2〜3回程度しか通っていないので、せめて少しでも元を取らねばと気合を入れなおす。
体重は75キロ前後で推移しており一般男性に比べると肥満気味。自分ではデブよりの標準体型だと思っていたが、鏡を見る限り痩せ型のデブにしか見えない。
一時期、週5ペースで通っていた時は68キロぐらいまで落ちて、筋肉の形もぼやっとだが見えていたのにな。
本日の記録
スクワット 80㎏ 5×5
ベンチプレス 50㎏ 5×5
デッドリフト 85㎏ 5+5+2+2+5
体重 75.3㎏
筋トレ後に会社に行ったら昼休みに足が筋肉痛で辛かった。
これからは二日に一回ぐらいのペースでちゃんと通うようにしよう。
助走のまま死んでしまいそう
本を読まなくなった。
暇があればいつもスマホを見ている。
昔はもっと小説を読んでいたような気がしたけど、思い返せば星新一のショートショートや短編集のようなものしか読んでなかった。
推理小説や長編ものは何やかや手を出さなかった。子供の頃からパッと読んでサクッと面白いものが好きだったんだ。
だから今のインターネットは性に合っているのかも知れない。読みたいときに読めて後に残らない。朝読んだコンテンツは夜には忘れている。
常にその場しのぎの暇つぶしが続いている。
趣味のキャンプについて記録を残していこうと始めたブログなのに、キャンプは行けども記録は残さず。
これがその場その場で生きてきた人間の限界です。
ただの日記にしようかとも考えたけど、日々記すようなことも無く。毎日を惰性で生きて、助走のまま死んでしまいそう。
自動尻叩き機
歳を取れば取るほど「継続は力なり」の実感をヒシヒシと感じる。
子供の頃と比べてやり明らかに続ける気力というものが落ちている。何も続けられなくなってしまった。
自分の為に始めたことさえ、なんやかや理由を付けてサボってしまう。強いて続けられていることと言えば仕事ぐらいで、その仕事さえ尻を叩かれないとやる気が起きない。
誰か自動的に尻を叩いてくれる機械を開発してくれないかな。
女子の人間性否定トーク
とても暑かった。
明後日あたりに台風が来るらしいが、大気が安定しているのか、もの凄い暑い日だった。
なので髪を切りに行った。
予約までに時間があったのでキャンプ用品店にアルコールストーブを物色しに行ったけど、3000円ぐらいする良い奴しか置いてない。
やっぱりamazonで売ってるような1000円以下のアルコールストーブは量販店には売ってないのかなあ。
そうこうするうちに時間が迫ってきたので美容室に移動。
歩いてるだけで汗が噴き出てくるような暑さだ。
担当の美容師さんに、暑いのでバッサリ切って下さいと依頼。
かなり良い感じになった気がする。
シャンプーをして貰っているときに隣の会話が聞こえてきたので女子トークをずっと聞いていた。
友達の結婚式に参加したら同席した友達がトイレで泣いていたらしい。どうしたの?と聞くと、私の方が早く結婚するはずだったのに、と悔しくて泣いていたようだ。
えー!?さっきまで泣きながらおめでとうって言ってたじゃん!まさかあれも悔しくて泣いてたの!?と思ったけど聞けなかったらしい。
その後はその子の人間性否定トークでめちゃくちゃ盛り上がってた。
髪を切ってもらった後にパチンコ屋で5000円負けた。
この5000円でアルコールストーブ買えたな。
今日の4、今日の8
教科書が読めない人が一定数いるらしい。
https://toyokeizai.net/articles/-/300847?display=b
ニコニコ動画やYouTubeなどの動画共有サービスが一世風靡したのは何年前になるだろう。
十五〜六年前、西暦でいうと2003年頃はまだ2ch全盛期だった気がするし、05年頃からニコニコ動画が面白いぞとザワザワし始め、そこから数年であっという間に動画共有が一般大衆化されたように感じる。
気付いたら2ちゃんねるが本当に閉鎖されていたり今日の4や今日の8といった謎のパスワードを解く事もなくなってしまった。
昔は良かったなんて言うつもりは無いし、今の方がインターネットは明らかに健全になっているのだが、誰もが好きに書き込める環境が整ってしまったことで文章を理解するのが苦手な人達まで個人の意見を発信するようになったと思う。
おそらく冒頭の教科書が読めない人というのは昔からそれほど割合自体は変わっておらず、分布しているエリアが異なっただけなのではないだろうか。
昔はテキストでのコミュニケーションが苦手な人はインターネットから自動的に排他されていたので顕在化されることは無かったが、今や人類みなインターネット時代である。
大人も、子供も、おねーさんも、全員がインターネットに繋がっている。
そしてそのインターネットは文章が読めなくても楽しめるエンターテイメントが満載なのだ。
半年ROMれと罵られることもなければ、ROMっているだけで十分に楽しいのが今のインターネットなのである。
言いかえれば、みんなで集まって楽しいことをやっていた側(文章が読めるタイプ)は、今や表現者として楽しませる側に回り、インターネットに関われなかった側(文章が読めないタイプ)がリスナーに回ったということではないだろうか。
そこで、一つの問題が発生する。
これまで決して表に出ることが無かったリスナーの声が、なんのフィルターを通すことなく無編集で発信されるようになったのだ。
そりゃあ目立ちます。これまでネット上でしのぎを削ってきた人達の中に、いきなり無課金のアバターが乱入してくるようなものだ。
これが悪いということではなく、今はもうそういう世の中になったということだ。
嘘を嘘であると見抜ける人でないと、なんてもはや言ってられないのである。
インターネットは黎明期を超え、成長期を過ぎ、今は成熟期に入った。いや、またまだ成長期の真っ只中かも知れないのである。
これからのインターネットがどこまで進化するのか今から楽しみだ。
インターネットデブリの記憶
ぬるっとブログの更新を再開してみた。
理由は、とあるキャンプメディアでライターとして記事を投稿することにしたので、個人ブログもちゃんと更新するようにした方が良いかなと思ってのこと。
キャンプメディアと言っても某キャンプハックのような大手メディアではなく、スタートしたばかりの小さなポータルサイトである。
思い返せば、昔から何かを思い立っては個人ブログを立ち上げていた。
それこそ魔法のiらんどから前略プロフ等々の黒歴史を含めて、mixi、アメブロ、FC2、名前も忘れてしまったサービスまで様々なインターネットデブリを残したものだ。
今でもアカウントは残ってるかも知れないし、あったとしてもパスワードを忘れているからどうしようもないが。
海に漂うゴミは海流に乗ってあるエリアに集まるらしい。それを回収して海を綺麗にするプロジェクトもあるようだが資金不足か何かしらの理由で順風満帆とはいかないようだ。
そのようなことをテレビでやっていたのを横目で見ていただけだが、その時は海にゴミを捨てるなんてけしからん奴がいるもんだ、と思っていた。
果たしてインターネットのゴミはどこに向かうのだろう?
ある一箇所に集められてまとめてデリートされるような機能があれば良いのだが。まあ似たようなことをサービス提供者がやっているのだろうな。
自分の悪口がネット上で書かれていないか検索するエゴサーチというものがある。
試しにグーグルで自分の名前を入れて検索すると、一つのサイトがヒットする。
ある意味では黒歴史だし、ある意味では懐かしい思い出でもある。
どうにかしようにも完全に自分の影響下から離れてしまったサイトなのでどうすることもできない。
ある人にとってはゴミのような記録も、別の人にとっては重要な歴史なのかも知れない。
海にプカプカ浮かぶペットボトルに思いを馳せながら、そのペットボトルにも何かしらの歴史はあったんだろうなと考えてみる。
中学生の頃、歴史に残るような人になりたいと思っていたのを思い出した。
いつも食べないものを食べてみる
いつも食べないものを食べるのが好きだ。それは断じてゲテモノ好きとかディープな話ではない。
例えば、松屋に行って新商品が出ていたらとりあえず食べてみたいし、よく行く定食屋では注文したことないメニューを注文したりする程度のことだ。
これを会社の同僚に話したら、チャレンジャーだね、と言われたことがある。
同僚の場合は店ごとに食べるメニューがある程度決まっており、ここに来たらコレ、というパターンがあるようだ。
今日は昼過ぎにお腹が空いたので、近所の喫茶店で遅いランチを取ることにした。
過去に一度だけスパゲッティを食べたことがあったので食事メニューもあるのは知っていたが、まじまじと見ると全部で10品ぐらいしか無いみたいだ。
彩り豊かな写真が並んでいるが、以前に食べたナスのスパゲッティはとても美味しかったので今日は違うものを注文してみよう。
どれだけ美味しい料理が出てくるのか楽しみだ。
ウェイトレスが運んできたビーフシチューオムライスはメニューに載っていた写真とお皿や盛り付けが異なっているように感じた。
あれ?と思いながらビーフシチューをスプーンで掬おうとしたら、想像してたよりもお皿が浅くカチンと跳ね返される。
こんなに浅瀬のビーフシチューは初めてだ。水深1mmしか無いぞ。
どうやらメインはオムライスの方で、ビーフシチュー要素はトロトロのお肉が数個ほどデミグラス色のウユニ塩湖で遊んでいるぐらいだった。
期待を裏切られはしたが、味はとても美味しい。とろとろの卵がチキンライスを包み、ビーフシチューが良いアクセントになっていた。
もしまた来ることがあったら、次回はカツサンドを頼んでみようと思う。
食後のコーヒーを注文して、ぼーっと考えてみる。
普段食べないものを食べるってそんなに珍しいことでもないし、常に同じものを食べることの方がどちらかと言えば苦痛なのではないだろうか。
と思ったが私の妻はいつも同じものを食べている。コレと決めたら1ヶ月ぐらい同じものを食べ続けていても何とも思わないようだ。
思いを巡らすと、何を食べるか、というのはこれまでの生活の中で何百何千と繰り返されてきた自問自答である。
この手間を省略してしまった方が、人生のリソースを考えれば、かなり有益なのではなかろうか。
考える手間が省けて他のことに集中できるし、期待したものが美味しくなかったという余計なストレスを抱え込まなくて済む。
何を食べるか、を辞めてみるか。いやしかし、それにはチャレンジできそうにはないな。
親を超えたと思える基準って?年収、体力、早熟度、幸福度、知識?
皆さんは「親を超えたな」と思った瞬間はあっただろうか?
私はふとした瞬間に「あ、親を超えちゃったか」と思った瞬間があった。
それは有り体にいえば、親の年収を超えた時だった。
しかし、その思いは瞬間で消え去る。だって、俺、子供いないじゃん。
親を超える基準は?
では、親を超えるとは一体何をもってして判断すれば良いのだろう?
結論を先に述べると、それは人それぞれが抱えているコンプレックスの要素で超えることが重要なのではないかと思う。
コンプレックスと書くと、なんとなく心から気に病んでいる部分と捉えてしまうが、そういうことではなく、本人の中で「一般的に考えて大事だよな」と認識していることだ。
例えば今回の私のケースだとこうなる。
一般的に男の価値は年収が基準
あながち間違ってはいないだろうが、年収がすべてだと言っているわけでは無い。
人の能力というのはある程度は年収に繋がるものだ、という考えの元で、一つの判断基準として持っている私の中の価値観である。
だが冒頭でも書いたように、私の中には別の価値観もある。それが子供だ。
つまりこういうこと。
ヒトは子孫繁栄のために生きている
この点で言えば、私は完全に親を超えられていない。だって子孫を残せてないもん。
お金だけあっても子供がいないのならば、私が死んだ後に残るものは何もない。
親の代から脈々と受け継がれてきた家系が私の代で終了することになるのだ。
厳密にいえば兄が子供を作っているので家系は繋がるのだが、家系図を見ると私の下には何も記されないまま消えることになる。居ても居なくても同じということだ。
こうした観点から、私自身はまだ親超えできてないと捉えているし、今後もこの気持ちは一生消えることはないのかなと思っている。
何かの折に養子でも取ればまた気持ちは変わるのかも知れないが、養子を取るほどには裕福ではないのが現状だ。ただ、実は、ほんのりとそういう気持ちというか目標みたいなものも心の隅にはあったりする。やはりコンプレックスの一因ではあるのだ。
体力はいつか必ず親を超えるもの
体力的に親を超えたなと思ったのはいつだろうか。
ここはあまり自分の中で重要と考えていない部分であり、実のところ明確に親を超えたと思った瞬間も無かったように感じる。
中学生の頃、親がやたらと「腕相撲しようか」と誘ってきた時期があった。しかし一度たりとも親に勝てたことは無かった。だからかも知れないが、今も親と腕相撲をしたらもしかしたら負けるかも知れない、という気持ちもあったりする。
私の親はもう還暦であるから負けるはずはないのだが。だからと言って、勝った、超えた、とも感じていない。衰えたんだな、という侘しさがあるだけだ。
親よりも早く結婚した?セックスした?社長になった?
人生の、男として競い合う部分の一つに早熟度があるだろう。少なくとも中学生や高校生時分の時は何よりも重要視されている項目の一つだと思う。
誰よりも早く彼女を作り、セックスを経験し、一人でも多くの女を抱く。
その早さ、多さが男の価値である、という考えは、いつの頃からか私の中で風化していった。
何故だろうか。自分の容姿に自信がないからか、それともある程度は経験をしたので満足してしまったのか。
人よりも多いと感じたことはないし、まあ、中の下か、いいとこ中の中ぐらいだろうという感じではあるが、数が多かろうが少なかろうが誇れるものではないな、という考えにいつの間にかシフトしていった。
女の他にも、一つの会社の社長になったこともあるが、それも特に感慨深いものでもなく、7年続いた会社を閉鎖した時も、やっと終わったか、といった感じであった。
おそらく地位や名誉というものも、私の中では人生の要素ではないのだと思われる。
胸を張って自分の人生は幸せだと言えるか
これまで、自分はなんて不幸なんだ、と感じることはあまり無かったように感じるし、自分はなんて幸福な人生を送っているんだ、と思ったことも特になかった。
しかし、不幸ではないと言えることは幸せなんだろう、とは考えている。
これはおそらく親の教育のおかげもあるのだろうし、そういう意味では育ててくれた親に感謝もしている。
子供の頃から不自由なく暮らさせてくれているし、完全に自立できるまで仕送りまでしてくれていた。そう考えると、相当に恵まれた人生を送っているんだと思う。
うん、私は幸せ者なんだろう。実感が湧かないのは、当然のようにそうしてくれた親のおかげだからだろう。
つまり、私の幸せは親の上に成り立っているのだ。そういう意味では、私は親を超えることは一生出来ないのではないだろうか。
親が知らないことを知っている
知識は神が人間に与えた能力らしい。そういう意味では親よりも豊富な知識を持っているということは人として親を超えたことになるのではないだろうか。
IT企業で働いている私は当然のように親よりもパソコンに詳しいし、インターネットに精通している(親よりも、という意味)。
なので、親からパソコン関係のことで頼られることもあるし、分からないことがあるから調べてよ、と言われて面倒ながらもグーグル先生に教えを乞うて、その知識を親に分け与えることもある。
そういう分野では確実に親を凌駕しているが、だからと言ってすべての事柄に詳しいわけでも無く、ある程度の情報の取捨選択が出来る、といった程度なので、それが凄いことだとも思っていない。
むしろ誰だって調べれば分かることなのだ。調べても分からないことは、インターネットが発達したこの世界ではほとんどないのでは無いだろうか。
しかし、大事なことはきっとその「調べても分からないことをどれだけ理解しているか」ということなんだと思う。大切なのは知識ではなく、溢れかえった知識をどのように活用するかという「知恵」の部分。
そう考えると、私は人よりも知恵があるとは言えないし、かといって親よりも知恵が劣っているというとも感じていない。自意識過剰か?
親を超えるにはどうしたら良いか
ここまで思いついた観点から親を超えているかどうかを考えてみたが、ある分野では超えていると言えるし、違う分野では劣っているともいえる。
私の中では、親は偉大である、という気持ちが大きいので、きっとどこまで行っても親は超えられないなと考え続けるような気もする。
しかし、しかし、だ。
親を超えたところで、何があるのだろうか?
コンプレックスからの解放?
自分への自信?
もしかしたら、明確に親超えを果たした暁には、想像もしたことがない何かが手に入るのかも知れない。
ただ、考えてみれば、親は必ず老いて死ぬのだ。では死んだ後には何が残る?
親が死んでも自分が残る
そう、親を超えるということは、つまり今の自分を超え続けなければならない、ということにならないだろうか。
そう考えると、改めて、親って偉大だな、と思うのだ。今の自分を超え続けるために自分を磨き続けることが、きっと親を超える方法の唯一の道なのだと思う。
そう思った平日の午後でした。
仕事サボってこんなことしてる場合じゃないな。早く仕事しよ。